横浜でクリエイティブな活動をする方々を、インタビューで紹介。クリエイティブの現場の生の声をお届けします。

 

 

第16回:橋本誠さん(「寿オルタナティブ・ネットワーク」プロジェクトマネージャー)、河本一満さん(「寿オルタナティブ・ネットワーク」総合プロデューサー)

構成/インタビュー 茂市玲子(QUIET LTD.)
編集/テキスト 平井莉生
写真(インタビュー光景) 高橋宗正

 

日本の戦後復興期は横浜の港を支える労働者の街、現在は福祉の街「寿町」。寿町は、寄場と呼ばれる都市の機能を核に簡易宿泊所が街全体に拡がる、俗にドヤ街と呼ばれてきた地区で、東京の山谷、大阪の釜ヶ崎と共に並ぶ規模を持っています。港や建設の機械化と共にその機能は衰退し現在に至ります。
独自のコミュニティを形成するドヤ街・寿町で、「寿オルタナティブ・ネットワーク」はアート活動の可能性を模索してきました。町のおっちゃんたちと、アート。なぜ、この場所にアートを持ち込んだのか。おっちゃんとアートが出会い、何が起きているのか。マネージャーの橋本誠さん、総合プロデュースの河本一満さんのふたりに話を聞くと、普段目にすることのない寿町の姿が垣間見えました。

橋本誠さん(右)、河本一満さん(左)。
橋本誠さん(右)、河本一満さん(左)。

 

【目次】マスタープランは作らない | 一緒に変わっていく寿町から全国へアートと街の関係性

 

マスタープランは作らない

寿町につくと、橋本さんが町を案内してくれた。橋本さんが指さしているのが、ドヤ(「宿(ヤド)」を逆さに読み「ドヤ」。簡易宿泊所のこと。)をリノベーションして作られたホステル。
寿町につくと、橋本さんが町を案内してくれた。橋本さんが指さしているのが、ドヤ(「宿(ヤド)」を逆さに読み「ドヤ」。簡易宿泊所のこと。)をリノベーションして作られたホステル。
装飾のないホステルの室内を、アーティストの作品が彩る。ここには紐で絵を描く、いしかわかずはるさんの作品が。
装飾のないホステルの室内を、アーティストの作品が彩る。ここには紐で絵を描く、いしかわかずはるさんの作品が。
街角のいくつかの店には、アーティストの竹本真紀さんが制作した寿町の非公式キャラクター「コトブキンちゃん」の姿が。
街角のいくつかの店には、アーティストの竹本真紀さんが制作した寿町の非公式キャラクター「コトブキンちゃん」の姿が。
アーティスト田中功起さんのスタジオ(南雲ビル)。田中さんが海外に出ている現在は、同じギャラリーに所属している佐々木健さんが制作活動を行っている。
アーティスト田中功起さんのスタジオ(南雲ビル)。田中さんが海外に出ている現在は、同じギャラリーに所属している佐々木健さんが制作活動を行っている。

 

(河本)「寿オルタナティブ・ネットワーク」をスタートする2年前から、僕は町のリサーチを始めていました。当時の寿町は、街づくりに関わってきた自分も含めて、あまり人々から注目されていなかった。福祉政策としては取り組まれていましたが、「街づくり」という観点はまったく考えられていなかったのです。誰もやっていないなら、僕がやってみようと思ったのですね。それまでアートを活かした街づくりプロジェクトをいくつかやってきたので、「アートを活かして寿町のために何かできないか」ということからスタートしました。

(橋本)僕は横浜の大学に通いながら、BankART1929などでアートの企画をプロデュースしていたときに、色々なところで河本さんと顔を合わせるようになり、知人に紹介してもらいました。そうして、河本さんに寿町に連れて行ってもらったのですが、その時は正直言って、寿町をフィールドにアートプロジェクトをするというのは「僕にはできそうにないなぁ」と思いました。

(河本)当時は僕が一緒にやってくれる人を探して、寿町を案内するツアーをやっていた時期でね。いろいろな人に声をかけていて、興味を持ってくれる人はいても、実際に腰を据えてくれる人はなかなかいなかった。

(橋本)それまで自分がやっていたアートのプロデュースは、ビジョンを描いて、実現に向かって計画的に行動していくもの。寿町では、何をしていったらいいのかビジョンが描けなかったのです。ただ、場所が安く借りられるというところに心惹かれて・・・やってみようかな、と。アーティストに声をかけてみました。そしたら、田中功起さんが興味を持ってくれた。アーティストが興味を持ってくれたことをきっかけに、「何かしなくては」と、アーツコミッション・ヨコハマの助成金に応募したのです。そうしたら交付が決まって、もう、逃げられなくなっちゃって(笑)。半ば、とにかく誰かに何かをやってもらわないと!と、興味を持ってくれそうな人に声をかけて回ったんです。その結果、モチベーションの高いアーティストが、主体的にそれぞれの企画に取り組んでくれました。しかもほとんどのアーティストが想像以上のことをしてくれたのです。予算の配分にしても、例えば「滞在期間を延ばしたい」などの、活動を始めてから出てくるような要望に応じるために、いわゆる「のりしろ」の部分や派生的に生まれた活動に対して比重を置くようになっていきました。ただ、やっていることがあんまりバラバラだと外からは何をやっているかわからなくなるので、僕の方では、全体から見て不足感のある方向性の活動をプログラムしたり、全体をどうパッケージして発信していくかを考える、それだけで十分でした。

(河本)こうして橋本くんが引っかかった(笑)。「街づくり」となると、街のマスタープランを作って、その後に事業計画を立てて、箱モノを作るというのが普通の行政のやり方。でも、一旦いろんなことを決めてしまうと、作ること自体が目的になってしまって、元々住んでいる人たちが置き去りになってしまうことが多いのです。上から目線で手をいれるのではなく、住んでいる人と同じ目線でアプローチをして、ひとりひとりでできることを小さなことから積み上げる。そうして時間をかけて住民と一緒に考えて、町と一緒に変わっていければいい。そんな場所がここに唯一残っている、と思ったわけです。だから、ここに暮らす人たちと何ができるかを考えることからスタートしました。

 

 




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